神様や霊界、聖書等ついて、統一原理の立場から分かりやすく解説してます。
2011-12-07 09:26
79.愛と信仰の逆転
12章 愛による救いと信仰による救い-3
イエス様の教えの中心は「愛」です。神の愛とは何なのか、真の愛とは何なのかについて、説教の多くを費やしています。「敵を愛し、敵のために祈れ」というのは、物理的に不可能なことを言ってるわけではありませんが、心理的に非常に難しいことを言っています。
頭では、そういうことが出来る人、そういう心情を持てる人は、きっと人格的に優れた人であり、私自身もそうあるべきだろうなとは、多くの人が考えるのではないでしょうか?しかし、現実には、とても難しく高いハードルです。
つまり、このような教えを聞いても、多くの人は希望を感じません。初めから、自分には無理だと考えるからです。人権、平等といった考え方も、法律も今ほど整っていない当時のユダヤの人々は、今の我々よりも、さらにもっと希望を感じませんでした。彼らにとって、イエスの教えは、今の私達が考えるよりも、さらに非現実的な教えに見えたのです。
イエスの愛の教えは、信仰がないと難しいです。愛の実現には、とてつもなく強い信仰が不可欠なのです。そこでイエスは言いました。「あなたなりの考えでは、無理と思うかもしれないが、とにかく私を信じて付いて来なさい。」これは決して、私をキリストと信じさえしたら天国に入れますよ、などという飛躍した話をしたのではありません。
このようにイエスの教えにおいては、愛が主体・第一なのです。愛を実現するために信仰が必要なのであり、信仰は、二次的なものなのです。
しかし、パウロは、もっと現実的、俗世的なものの見方をしました。つまり、これでは布教できない。迫害に対し反論できない。信徒たちに説明できない。そう考えたのです。
そこで、愛と信仰の順序を逆にしました。信仰を第一としたのです。信仰こそが救いなのだ、と。そして、イエスの愛の教えを、単なる道徳訓にしてしまったのです。愛は、救いとは直接関係はないが、信仰を通して救われると、神様は、私を愛の人格者に作り替えてくださるのだ、という教えに作り替えてしまったのです。
このように愛と信仰の順序・位置関係を逆にしたこと。これがパウロの作り上げた教義の本質です。このようなパウロの教えは、キリスト教の布教活動・教勢の拡大、批判勢力に対する理論武装としては、大きく貢献しましたが、イエスの教えとは、本質的に大きく異なったものとなってしまったのでした。
つまり、パウロが作り上げたキリスト教理論とは、「救いのための教え」ではなく「組織のための教え」だったのです。
次回からは、13章 神様の救いの摂理-1、についてお話します。質問・ご意見・訂正、大歓迎。↓[読んだよ]↓押してね。続ける気になります。でも、質問とかご意見とかあったら、もっとやる気になります。

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